東日本大震災11年 あのときを振り返る

2022(R4)年度、6年生になる子どもたちがゼロ歳の時に、東日本大震災は起こりました。

今また世界的なパンデミックの中、必死に赤ちゃんを育てている親御さんたちがいらっしゃるはずです。

あのときこうだったな…

富小本部役員を中心に、あのときを思い出してまとめてみました。記憶は薄れるもの。記録として残すことで、あのときを思い出し、次に活かすヒントが得られるかもしれません。

ご協力いただいたのは15名の方々です。この場を借りて、感謝申し上げます。

(1)震災当時のお住まい

 浦安市内…11人、市川市…1人、東京都…1人、兵庫県…1人、関西…1人

(2)震災当時のお子さんの人数

 お子さんの人数0人…5人、1人…7人、2人…3人

(3)当時大変だったこと

・断水のため、トイレやお風呂が不便

・水が出なくなり、富岡の実家に避難した。水はチョロチョロとしか出ない、計画停電を経験した。実家は半壊。

・まだ結婚前で、次の日から仕事で海外に行かなくてはならず、不安なままとりあえず出発。現地のニュース等で日本で電池や水がなくなると聞き、たくさん電池や水を買って帰国した。帰国後のインフラもどうなるかわからなかったので、とりあえず行く前にカレーをたくさん作ってから出発した。

・実家や友達と連絡が取れにくくなってたこと

・当日保育園に迎えにいきましたが保育園・避難場所指定公園が液状化で利用不可能、一番近い小学校に頭巾を被って身を寄せてました。富士見はライフラインは問題無かったので上下水道断水等で困ってるクラスの友達家族の洗濯をウチでしてました。

・水が売り切れ、飲み水確保

・1番大変だったのは水道が止まった事でした。ガス、電気の復旧は早く、排水は止まらなかったので、市内でも幸運なほうだったとは思いますが、サンコーポは水道が10日間ほど止まった記憶があります。

・震災直後は東北の被害が大変大きく、浦安は人命にほぼ被害がなかった為、浦安にもそれなりの被害があったことは報道されませんでした。都内はすぐ隣の江戸川区でも浦安のような大きな被害はありませんでした。

そのため、都内で勤めていた主人は翌々日からは通常通りに出勤する必要があり、接客業の為、お風呂に入らずに出勤するわけにもいかず、主人だけ、都内の主人の実家に避難する事になりました。まだまだ余震も多く、移動中の安全面に不安があったため、私と息子は同じサンコーポ内の私の実家で過ごす事になりました。

サンコーポでは緊急事態だということで、防火水そうの貯水を排水用の水として配布することを決定し、上は動けるおじいちゃん世代から、下は学校がお休みになった中学生位までの子達が、自力で水を取りに行けないおうちに、台車に大きなポリバケツを積んだ状態で、おうちのお風呂まで運んでくれたりしていました。

さらに、C棟自転車置き場付近で水道管が破裂し、突如泉が出来上がり、その水を汲んで生活用水に使用したりもしました。2日後位には管理センターの方がそこに電気を設置して、夜でも利用できるようになりました。後から聞いた話によると、水道管の大元を止めようという水道局に対して管理組合の方が「ここから出ている水でなんとか生き延びてる人もいるから、止めないで欲しい」と交渉したそうです。

サンコーポは水が止まりましたが、道路を一本挟んだ富岡4丁目は水がすぐには止まらなかったので、当時そこにあった個人営業のコンビニでは、店主のおじさんが外に設置してある水道のホースから自由に水を持っていって良いよ、と水道を開放していらっしゃいました。当時すでにそこそこのご高齢だったこともあり、今はもうコンビニ自体がなくなってしまったのですが、あの時の水道代は一体いくらになったのか、その後少しは補償されたのか…今でも思い出すとありがたくて、涙が出そうになります。

富岡1丁目に住んでいるお友達のママからも、同じく大変な状況なのに、「うちはまだ水が出るよ、届けようか?」と声を掛けていただいたりしました。誰も彼も、お互いにパニック寸前だったはずなのに、思いやり、気遣いの言葉を掛けていただけたのが、本当に本当にありがたかったです。

・当時わが家はまだ子供はいなく夫婦二人の生活でした。それでも手に入らない日用品が多くそれなりに困った思い出があります。もし小さな子を抱えていたらどうなっていただろう?と思います。

・小さな子を連れ買い物にも行けなかった。オムツミルクが手に入るか不安で仕方なかった。

・断水で、一歳の子どもを連れてお水を汲みに行った

・計画停電で暖房器具が使えず寒かった

・下の子がまだ生後4ヶ月でミルクを飲んでいて、水が出ない状態の中、ミルクを作るのも哺乳瓶を洗うにも水が必要で大変だった。

・私の経験した震災当日
病院勤務の私は目の前の患者さんの安全を真っ先に考えスタッフ達と行動する中、傷病者が運ばれてくるかもしれないからと帰宅許可はなかなか出ず。下校途中だったはずの娘さんと連絡が取れないと不安にかられる先輩を見て、ようやく我が子の保育園は大丈夫だろうかと我に返る。保育園に迎えに行ったとき2歳の息子は母の迎えにニコニコしていて、ほっとして。自転車に乗せ帰宅しようにも液状化でこぎにくい。暗いしタイヤがぬかるみにはまる、でも子供は歩かせられない。必死に押して帰宅。家に入り電気が点き安堵しつつも夫は帰宅困難者で連絡も取れず。子供を守るのは自分しかいない!と言い聞かせながも心細い夜を過ごした。翌朝外に出て自宅の損壊と液状化のひどさに愕然。近所の方達と一緒に泥を撤去。自治会配布の物資をもらえる場所もその時に教えてもらえ助かった。年齢層は違えど近所の方との繋りは良いなと思った。子供はどろ遊びだと思ったのか嬉しそうに外に出る姿にここだけは日常だなと癒やされた。幸い外の水道だけは水がチョロチョロ出たので近所の人が汲みに来たり、洗濯をしに来たり。1週間後、蛇口をひねって水が出たときは感動した。計画停電はあったが震災直後に電気が止まらなかった事は心の安定の為唯一の救いだったと思う。
・当時三ヶ月と2歳の子供のお風呂を探すのが1番大変でした。
・海外にいて状況がわからなかったこと。帰国後はミルクの水を手に入れるのが大変でした。

(4)当時の経験から学んだこと


・飲み物、保存食など蓄え 防災バッグの準備

・当たり前のことが幸せなんだと言うこと。

・自らも被災しているのにも関わらずライフラインの復旧に尽力された方々への感謝。
災害への備え、起きてしまったことへの対応について考えるようになった。

・備蓄食料の大切さ。あれからミネラルウォーターやペーパー類は多めに備蓄している。

・備蓄品を準備しておく

・非常食等備蓄、車のガソリンは常に満タンを心掛けてます。

・ペットボトルの水を確保

・最低限の備蓄と訓練は大事なんだな、と思いました…。

・息子が一歳半だったので、食料品やおむつは常にストックを多めに持つようにしていたのであまり困ることはありませんでしたが、水はそんなに貯めてなかったので、慌てました(たまたま実家に備蓄があったのでなんとかなりましたが)。

何より、いざという時の行動のシュミレーションができていなかったので、ガスが止まった後に、自分で復旧動作を行わないといけない事にしばらく気が付かず、まだまだ寒い中、「いつ復旧するのかなぁ」とぼんやり待ってしまっていたりもしていました。

今、振り返ると、当時、学校で避難訓練を定期的に受けていた小中学生は、液状化現象についても最低限の知識を持っていて、とても落ち着いていたな、と思います。

私自身は長年サンコーポで過ごしていたので、液状化現象や地盤沈下が起っても、そう簡単にはサンコーポは傾いたり倒れたりしない(地中かなり深くまで基盤が届いている)と知っていました。なので、直後の中庭への避難の際も「いつもは地震だと外に出るな、って言われるのに珍しいな~、ガス漏れかな〜」とのんびりしてたのですが、一緒に避難していた若いお母さん達の間では「C棟の左側、下がってない??傾いてるよね??」とざわざわとした声があがっていました。実際には、30年見慣れた状態、角度的に遠近法で下がって見えてるだけの状態だったので、「ああ、みんなパニック寸前なんだな」と思ったのをおぼえています。

定期的な訓練といざという時の知識の確認、とても大事だと思いました。

あとは何より、地域のみなさんとのつながりが、いざという時にとてもとても大切だと学びました。私はその点、サンコーポで育った子だったので、とても恵まれていたと思います。

・夫婦で仕事ばかりの毎日でしたので近所付き合いが全くなく震災直後初めてお隣、お向かいの方と連絡先を交換したのを覚えています。道路液状化、断水などが続き日々変わる地域情報を受けるのに本当に近隣の方々にはお世話になりましたし、毎日コミュニケーションをとるだけで不安が少し払拭された記憶があります。
そしてこれをきっかけにご近所付き合いは続き翌年子供が産まれてからは育児でも助けていただきました。今でも子供達の成長を見守ってくれてる存在が近くにあることはとても心強いです。

安心して暮らすための地域交流の大切さは、この11年を通し身をもって学び、実感しています。

・震災後、関西はすぐテレビがつきました。「大きな津波が来ます」との情報はすぐに流れ、それが1時間後であったことから、「1時間あれば皆避難できるだろう」と楽観的に思ったのを覚えています。「あと30分」「あと15分」テレビのカウントダウンは減るのに、映し出される渋滞の車は一向に進まない。そのまま津波が襲い、呆然としました。
関係のない場所にいる自分は情報を映像付きで観ていて、当事者は観れていないのだ。当事者にとっての1時間は大変に短いのだと思いました。
得られる情報が少ないという条件下で、予め訓練をする大切さ、想定外の事態に自分の頭で考え決断する必要が求められるのだと思いました。(どなたかを非難する意図はありません。当時の自分は準備がなかったので、しなければならないと思った次第です)

(5)今パンデミックで小さなお子さんを抱える方たちへ一言

・人間は自然に敵わないところがあると思う。過去の災害であったり病が流行っても人間は絶滅しなかった。短期間で対応することは難しいかもしれないが、時間をかければ良い方向に向かう事ができると思っている。
終わりが見えないかもしれないが、自分の出来ることを積み重ねて生活することが安心に繋がるのではないかと思う。

・おむつやミルク、お菓子など、子どもに関わるものは買えるときにちょっと多めに買っておく。

・大変だけど頑張りましょう。

・一人じゃないよ

・ネットも良し悪しではありますが、外に出られなくても周囲と繋がれる時代になりました。それは今のような、友だちと自由に遊ぶことを制限される状況においては、本当に良い点だと思います。

親世代である私達にとっても、おうちの中で、ひとり不安にかられながら孤独に闘うのは絶対にマイナスだと思います。

異常事態においては、お互いに同じ不安を抱えてる事が分かるだけでも落ち着いたりしますし、思いがけない誰かが解決方法を知っていたりすることもあります。

あと、このあたりの近所のおじいちゃん、おばあちゃんは、結構な率で子供好きで世話好きです。

なので、どんな形でも、周囲の方とつながる事を諦めないでほしいです。

・躊躇せず周りに助けを求めてほしいと思います。子育ては親だけではどうにもならない時が必ずあり、周りサポートを上手く使ってほしいです。

・マスクに黙食。子供たちは本当によく頑張っていると思います。
つい後ろ向きにばかり考えてしまいますが、我が子はコロナ禍で手洗い、うがいが大変丁寧になり、風邪をひきにくくなりました。
前向きにとらえ、乗り切っていけたら良いなと思っています。

・地域が連携して子どもをもつ家庭を支えていけるようなら方法を見出すので、声を上げて相談して助けを求めてほしい。

・周りに相談したり頼ったり、1人で抱え込まないでほしいです

・大変だと思いますが、家族、親戚、お友達、支援センターの人など誰か話を聞いてくれる人がいると自分が楽になると思います。

・ソーシャルディスタンスは感染対策で必要だが心まで他者と距離を取って、自ら孤立しないで欲しいです。

・一歩外に出て助けを求めてみてください。

・小さい子たちは病気もしやすいですし大変だと思いますが、無理せず、気負わず、頑張ってください。自分のセルフケアも大切に!

(6)その他伝えたいこと

・震災直後の話になりますが、小さなお子さんがいるお母さん達は、中庭への避難の時にすでにいっぱいいっぱいの状態で、「学校に上のお子さんをお迎えに行かなきゃいけないことになっている」事に気が付くまで、しばらく時間がかかっていました。

そして、いざお迎えに行くにしても、「この状況でベビーカー押して学校まで行くの?!大丈夫?!」という感じでした…。

かと言って、この状況でベビーカーに乗るような小さな子を安全にお預かりできるかというと、それも難しい状況で。

なので、もし、次に学校にお迎えに行かねばならないような大きな災害が発生した際には(そんな事が二度とないのが一番ですが)、未就学児がいないおうちのお母さんは、できれば未就学児を抱えているおうちのお母さんに一言声をかけてあげてほしいな、と思います。

・(かなり余談になるかもしれません!)
災害、コロナ、戦争…いつ何が起こるか分からない、今の平穏が明日あるとは限らないこの世の中で家族と自分を守るために何ができるだろう?と……結局最終的に大事なのは生き抜く健康体なのでは?と最近日々体力作りに励んでいます。笑”

・改めて、東日本大震災でお亡くなりになられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。
また、被災者の皆様にお見舞い申し上げます。

・常に携帯の充電をしておくことも重要だと思いました。